異邦人

『異邦人』は、フランス人のカミュが著し、一世を風靡した小説です。この本は大学時代に友人(もう亡くなってしまったが)に「カミュくらい読んでおかないと」と言われて読んだものです。当時「不条理」ということばに人生の真実が潜んでいるような気がして読み始めたのです。あとさきは忘れてしまいましたが、『シーシュポスの神話』も読みました。どちらかを先に読んでよくわからないのですが、もうひとつカミュの作品を読んでみようと思ったようです。

簡単に『異邦人』のあらすじを書きます。主人公のムルソーはアルジェリアにいるフランス人です。何ごとにも強い関心を持たず、何が起こってもほとんど感動しない男で、その場その場の感覚で動いているようです。母親の死に対しても特に悲しむこともなく淡々と葬儀に参列します。しかし、その彼が友だちと悶着のあったアラブ人を「太陽のせい」で殺してしまい、裁判にかけられます。そこで「太陽のせい」で殺したことを証言し、検察官からは母の死に際して何の感情も示さなかったということで有罪になってしまいます。

この筋立てが、まったく理解できないというか、納得できないものでした。ムルソーが「太陽のせいで」殺人を犯すことに共感できませんし、母親に対する人並みの愛情がないといって死刑にされることも法治国家のフランスであり得ることではないと思いました。また最後に、控訴をせずみんなに罵られながら死刑台に上がっていくことに喜びを見出だそうとすることにも理解できませんでした。

特に「太陽のせい」は納得がいかないものの第一です。「太陽のせい」などという動機は現在の実際の裁判ででてきても笑い飛ばされるだけです。「太陽のせい」でいらいらしていたのならいらいらしていたで、殺す必要はないわけです。ふつうならこんな動機が成り立つはずがなく、違う動機が求められるはずです。読んだとき、どうして「太陽のせい」などという動機付けをカミュ(ムルソーはでなく)は持ち出したのかと疑問に思ってしまいました。それに対して裁判官や検察官が動機として持ち出すのが、の母親への愛情がない人格だということですから、論理的に整合しているとは思えません。ムルソーが非論理的なのと裁判官側が非論理的なのが、まったくずれながら結びつけられている感があります。ムルソーの生活ぶりや裁判のようすなど、他の部分がきわめて常識的な設定になっているだけに、強い違和感があるのです。

書評によると、この本が出版されたときサルトルはこの本を絶賛したようです。サルトルだけでなく世界のいろいろな作家や哲学者たちが絶賛しているようなのです。そういう話を聞くと、「わたしだけわからないままなのはしゃくだ」とばかり、その後『転落』も読み始めたのですが、結局だらだらと主人公が自分語りをしている展開がまったくおもしろくなく断念してしまったのです。

何十年も経って、もう一度読んでみようと思ったのは、むかしを思い出して自分探しを始めたからでしょう。若いころは読書もそれほど深く考えずに筋だけ追っていたような気がします。当時わからなかったことも、人生のいろいろな経験を積み、それなりに味わってきた今ならわかるようになっているかもしれないという気持ちも多少ありました。

「異邦人感覚」というのは若いころは、いや若くなくてもですが、だれもが持っている感覚なのではないでしょうか。自分は世界から孤立しているとか、よそ者扱いになっていると感じることがあります。それは、ちょうど自分が世界の主人公であり、自分が死ねば世界も終わるような感覚をもっているのにも関わらず、自分は世界の主人公たり得ないということからくるものだと思います。わたしも若いころは確実にこの異邦人感覚の中にいました。そして、世界だけでなく、自分自身の心に対しても異邦人であったことがあるような気がします。自分の感覚と理性とで人格がふたつに分離して、一方が他方に対して異邦人を感じるといった具合です。しかし、現在ではその感覚は消失してしまったようです。

しかし、もう一度ていねいに読んでみても、相変わらず納得できません。そこでこの『異邦人』を論評した本としてフランス文学者の三野博司の『カミュ『異邦人』を読む―その謎と魅力』を読んでみました。先行のさまざまな評論や批評を縦横に引用しながら詳細な分析をしていました。こんなことまで考えるのかというような深読み、言い換えれば過度な詮索、または勝手な憶測がこもっているようでした。

そこでは、いろいろな評者がムルソーが無実だといっているようです。しかし、なぜ無実なのかの理由を言い尽しているとは思えません本当に無実なのに処刑されるのだったら、もっと無実らしい、サッコとジュゼッペなどをあげればいいのです。。おそらく無実と言っているのは、殺人に関してではないのでしょう。

三野氏は「この物語を読んでいる私たちはムルソーの気持ちがわかる」などと書いています。しかし、私にはわかりません。たとえば、泥棒が金品を盗むことは罰せられて当然ですが、泥棒の立場になってどんなに困窮していたか知れば、同情というものも起こるものです。ちょうど燭台を盗んだジャン・バルジャンのようにです。しかし、ムルソーには同情する要素はまったくないのです。我々はふつう映画でも小説でも主人公に感情移入するものです。主人公の気持ちを前面に出して語っていくからでしょう。しかし、ムルソーにはまるで感情がないかのように表出しないのですから、同情のしようもないのです。

三野氏は、ジラールという批評家のことばを引きます。「どうすれば一人の男が犯罪を犯し、なおかつそれに責任をもたずにいられるのか」しかし、こんなことはジラールでなくともたいていの読者が感じることなのではないでしょうか。そして、同じくジラール「この「潔白」と「殺人」という二語の対立によって要約される矛盾こそが小説の構造の論理的欠陥をなしているが、しかし物語の技術が巧妙なので、この欠陥はきわめて発見されにくい」これも決して発見されにくい欠陥ではないと思います。三野氏はこれについて「おそらくは、作者自身によっても『転落』を書くまでは見抜けなかったこの欠陥が、いかに深い幻想に根ざしているかを、ジラールは分析する。」としています。この「欠陥」に対するわたしの理解はまったく違うところにあるのでしょうか。

このように三野氏はいろいろな批評家の論を引き合いに出して自分の論を進めています。例えばムルソーに対して精神分析的に捉えようとするバランジュの分析を持ち出します。しかし、そもそも創作上の人物を分析してもしかたがないことです。たとえばドラえもんののび太がADHDとされるようなことは、単なる比喩で障害を説明するときにわかりやすいというだけのことで、のび太自身を分析しても意味はありません。だから、ムルソーもおなじで、現実世界にムルソーがいるわけではないので、これを分析することになんの意義もないと思います。

また、ある批評家は、異邦人は「母と息子の物語」だとしてと、これを近親相姦の物語としてとらえようとしています。冒頭でムルソーが自分の母親を「ママン」と呼んでいるところが、マザー・コンプレックスの証拠のように読んでいますが、この母については、ムルソーの非情さを訴える検察側の戦略上の言及を別にすると、最初の葬儀と最後の場面で、母を回想するところでしか出てきません。そのわずかな記述から母との関係を結論づけるのは、想像をたくましくしすぎの感がします。実際、現在の日本でも自分の母親を「ママ」と幼いときから呼ばせた子が、大人になっても「ママ」と呼んでいるのを聞きますが、これをマザコンとくくることはできません。単なる習慣の問題です。

こんな感じで、周りが勝手にあれこれと論評しているだけのようにも思えます。最終的には『異邦人』カミュが表現したかったことは、カミュに聞くのがいちばんです。文学者というのは、なぜか、自分の作品を詳細に解説することはあまりないようですが、カミュは2度ほど自分の作品について語っているそうです。それも三野氏は挙げています。

カミュのことば。「ムールソオ(当時の翻訳の表記)に真実性がないといえば、キリストにも真実性がないと言えるのではないでしょうか。」また他の機会に、カミュはムルソーが「われわれに値する唯一のキリストである」と述べています。しかし、わたしはキリスト教徒ではなく、キリストや救世主の存在を信じていません。カミュがキリストと見なしているのは、ムルソーが人々の罪を一身に背負って殉教するという意味なのでしょうが、なぜ殉教しなければならないかも理解できません。

結局のところ年を取ってからの再読でもわからなかったという結論です。他に思うことはいっぱいありますが、うまくまとめる力がないので、このへんにしておきます。最後にひとつ知りたいのは、この作品を理解する(できる)人がどのくらいいるのかということです。少なくともわたしの周りでは皆無でしょう。もっとも異邦人がわかるかどうかを聞いて回ったことはないのですが。そして、この作品を理解した人間がその後どんな人生を送っているのかにむしろ興味を持っています。

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